ROI事件ファイル No.402『浄水場に流れる三つの水脈』
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浄水場に流れる三つの水脈
第一章:止まらない水、減りゆく人
「24時間365日、水は流れ続けなければならない」
AquaTech Solutions社の技術部長は、そう言って深いため息をついた。執務室の地図には、広島県内に点在する浄水場の位置が赤いピンで示されている。
「しかし、その水を守る人々は減り続けています。技術者の高齢化、若手の採用難、そして経験豊富なベテランの退職。人口減少は、水道事業者にとって利用者の減少だけでなく、運営者の減少も意味するのです」
彼が取り出した資料には、各浄水場の稼働状況と人員配置の変遷が記録されていた。五年前と比較すると、技術者の平均年齢は7歳上がり、総人数は2割減少している。
「広島県水道標準プラットフォームを導入し、広域運転監視システムで複数の浄水場を一元管理する体制には移行しました。しかし、それは単に『少ない人数で多くの施設を見る』体制になっただけで、一人当たりの業務負荷は増える一方です」
技術部長は、モニター画面の写真を指差した。そこには、複雑な配管と計器類が映し出されている。
「水の製造量調整、薬品投入量の最適化、異常の早期検知——これらの判断は今も人の手に依存しています。過去のデータを見て、経験則で判断する。その経験を持つ人材が、今まさに現場から去ろうとしているのです」
私は静かに問うた。「AIによる自動化を検討されているのですね」
「ええ。ただ、どこから手をつけるべきか、何が本当に必要なのかが見えていません。市場には様々なAIソリューションが溢れていますが、私たちの課題に本当に合うものがどれなのか」
それは、選択肢の多さゆえの迷いだった。
第二章:三つの視点という地図
「この案件、3Cモデルでの整理が有効ですね」
Geminiがホワイトボードに三つの円を描いた。Customer(顧客)、Competitor(競合)、Company(自社)——戦略立案の基本となる三つの視座だ。
「3Cモデルの本質は」と私は説明を始めた。「自社を取り巻く環境を三つの異なる角度から俯瞰し、それぞれの視点が交わる場所に戦略の糸口を見出すことにあります」
「まず、Customer——顧客の視点から始めましょう」
Claudeが資料を整理しながら言った。「AquaTech Solutions社の顧客は、浄水場を運営する地方自治体や水道事業者です。彼らが直面している課題は何でしょうか」
技術部長が答えた。「人手不足と業務負荷の増加、これに尽きます。特に深刻なのは、技術継承の断絶です。ベテランが持つ『この数値の組み合わせは要注意』といった暗黙知が、次世代に引き継がれないまま失われていく」
「つまり、顧客が真に求めているのは」と私は整理した。「単なる自動化ではなく、『経験の再現』なのですね」
技術部長が強く頷いた。「その通りです。AIには、ベテランの判断パターンを学習し、再現してほしいのです」
次に、Competitor——競合の視点だ。
「市場には既にいくつかのAIソリューション提供者が存在します」とGeminiが調査結果を報告した。「大きく分けて二つのタイプがあります。一つは汎用的なAIプラットフォームを提供し、カスタマイズは顧客側で行う方式。もう一つは、特定業界に特化した完全カスタムソリューションを提供する方式です」
「前者は導入コストが低いが、浄水場特有のノウハウを組み込むのに時間がかかる。後者は最適化されているが、初期投資が大きく、小規模事業者には手が届かない」
技術部長が苦笑した。「まさにその通りです。私たちは中規模の水道事業者ですから、どちらも帯に短し襷に長しなのです」
そして最後に、Company——自社の視点だ。
「AquaTech Solutions社の強みは何でしょうか」と私は尋ねた。
技術部長は少し考えてから答えた。「私たちは、水道事業の現場を深く理解しています。どの数値がどう変動すると異常の兆候なのか、季節や天候によってどう調整すべきかといった実務知識は豊富です」
「また、広島県水道標準プラットフォームという共通基盤を既に持っています。データの収集と一元管理の仕組みは整っているのです」
Claudeが目を輝かせた。「つまり、AquaTech Solutions社には『データ』と『ドメイン知識』という二つの資産が既にあるのですね」
第三章:三つの円が交わる場所
「では、3Cの分析結果を統合しましょう」
私はホワイトボードの三つの円を指差した。
「顧客は『経験の再現』を求めている。競合は『汎用型』と『完全カスタム型』に二極化している。そして自社は『データ』と『ドメイン知識』を持っている」
「この三つの視点が交わる場所に、AquaTech Solutions社の戦略が見えてきます」
Geminiが整理した。「つまり、汎用AIプラットフォームをベースに、浄水場特有のドメイン知識を組み込んだ『セミカスタム型』ソリューションということですか」
「正確には」と私は修正した。「自社のドメイン知識とデータを活用して、汎用AIを『浄水場に特化させる』プロセスそのものを、再現可能な形で確立することです」
技術部長が身を乗り出した。「それは、他の水道事業者にも展開できるということですか」
「その通りです。AquaTech Solutions社が最初の導入者となり、そこで得られた学習モデルやノウハウを、同じ課題を抱える他の事業者にも提供できる。これは競合の隙間を突く戦略です」
Claudeが補足した。「完全カスタムほどコストをかけず、汎用型よりも実務に最適化されている。中規模事業者にとって、まさに『帯に短し襷に長し』の間を埋めるソリューションですね」
「ただし」とGeminiが慎重に付け加えた。「この戦略には前提条件があります。最初の導入で確実に成果を出し、再現性を証明することです」
第四章:小さな世界からの拡張
技術部長は目を閉じて考え込んだ。しばらくの沈黙の後、彼は口を開いた。
「では、まず一つの浄水場で試験導入を行い、そこで学習モデルを構築する。その後、同じモデルを他の浄水場に展開し、再現性を検証する。そういう段階的なアプローチですね」
「ええ」と私は答えた。「3Cモデルが示すのは、『どこに立つべきか』という戦略的位置です。しかし、その位置に確実に立つためには、小さく始めて再現性を確認する必要があります」
「最初の一施設での導入を、単なる試験ではなく、『学習モデル構築のプロセス』として設計してください。どのようなデータを集め、どう前処理し、どうAIに学習させるか。その一連のプロセスを記録し、マニュアル化するのです」
技術部長が資料にメモを取り始めた。「そのマニュアルがあれば、他の施設への展開も、他の事業者への提供も可能になる」
「それだけではありません」とClaudeが付け加えた。「プロセスを記録することで、何がうまくいき、何がうまくいかなかったかも明確になります。改善のサイクルが回せるのです」
技術部長は立ち上がり、深々と頭を下げた。「ありがとうございます。目指すべき方向が見えました」
彼が去った後、Geminiが感心したように言った。「3Cモデルは、複雑な市場環境をシンプルな三つの視点に整理する力がありますね」
「ああ」と私は答えた。「しかし、3Cの真価は単なる整理術ではない。三つの異なる視点を持つことで、自分の立ち位置の『相対性』が見えてくることだ」
「相対性、ですか」
「自社だけを見ていては、強みなのか弱みなのか分からない。顧客を見て初めて、その強みが『顧客にとって価値があるか』が分かる。競合を見て初めて、その強みが『差別化要因になるか』が分かる」
Claudeが微笑んだ。「三つの視点が揃って初めて、自分の立ち位置の意味が理解できる、と」
窓の外では、雨が降り始めていた。その雨は、どこかの浄水場で処理され、誰かの元へと届く。
水は止まらない。そして、その水を支える技術も、止まってはならない。
三ヶ月後、AquaTech Solutions社から報告が届いた。最初の浄水場でのAI導入により、薬品投入量の最適化で年間コストを15%削減できたという。そして、その学習モデルを隣接する浄水場にも展開したところ、同様の成果が再現できたとのことだった。
3Cモデルが示した戦略的位置は、確かに存在していた。
「顧客・競合・自社という三つの視点は、戦略の地図を描く。しかし、その地図が正しいかどうかは、小さな一歩を踏み出して初めて分かる。再現性こそが、戦略の真価を証明する」