ROI事件ファイル No.413『書き直しという名の浪費』
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書き直しという名の浪費
第一章:二度描く苦痛
「加盟店の設計士は、同じ図面を二度描いています」
TechVision社の営業統括部長は、二枚の図面を並べて見せた。一枚は加盟店が作成した提案用の平面図。もう一枚は、それを本部が作り直した施工用の図面。両者は、ほぼ同じ内容だった。
「当社のブランドであるアイフルホームは、フランチャイズ方式で全国展開しています。加盟店は、顧客の要望を聞き、CADで提案図面を作成します。しかし、そのCADシステムと、本部が使う施工図作成用のCADシステムが別物なのです」
営業統括部長の声には、長年この問題を抱えてきた疲労が滲んでいた。
「加盟店のCADで作った図面は、本部のシステムに取り込めません。そのため、本部の設計部が、加盟店の図面を見ながら、一から入力し直すのです」
彼が取り出した資料には、年間の契約件数と図面作成時間が記録されていた。年間約3,000件の契約。一件あたりの図面書き直し時間は平均2時間。
「つまり、年間6,000時間が、書き直し作業に消えています」
「それだけではありません」と営業統括部長が続けた。「加盟店のCADシステムは、提案資料の見栄えが悪く、操作性も良くない。加盟店からは『もっと良いCADにしてほしい』という要望が絶えません。しかし、システムを変えるには大きな投資が必要で、本当に投資する価値があるのか、確信が持てないのです」
それは、投資判断における典型的な躊躇だった。
第二章:見えないコストの正体
「この案件は、まさに我々の事務所の名前の由来ですね」
Geminiが微笑んだ。ROI——Return on Investment、投資対効果。
「ROIモデルとは」と私は説明を始めた。「投資によって得られる利益を、投資額で割ったもの。しかし、多くの企業がROI計算で見落とすのは、『現状を維持するコスト』です」
「つまり」とClaudeが補足した。「新しいシステムを導入するコストだけでなく、現在のシステムを使い続けることで失われているものを、正確に把握する必要があるのです」
営業統括部長が身を乗り出した。「失われているもの、ですか」
「ええ」と私は答えた。「TechVision社が現在失っているものは、時間、機会、そして信頼です。これらを金額に換算してみましょう」
[隠れたコスト1:書き直し時間]
「まず、最も明確なのは書き直し時間です」とGeminiが計算を始めた。
「年間6,000時間。本部設計部の人件費を時給3,000円とすると、年間1,800万円のコストです」
営業統括部長が驚いた表情を見せた。「そんなにですか」
「しかし、それだけではありません」とClaudeが続けた。「書き直しには時間がかかるため、施工開始までのリードタイムが長くなります。顧客は待たされ、加盟店は次の案件に取りかかれない」
「この機会損失を定量化するのは難しいですが」と私が続けた。「少なくとも、リードタイムが1週間短縮されれば、加盟店は年間2〜3件多く契約できるでしょう」
「一件あたりの粗利を50万円とすると」とGeminiが計算した。「300店舗の加盟店が、それぞれ年間2件多く契約できれば、全体で3億円の売上増加です」
[隠れたコスト2:提案品質の低下]
「次に、加盟店のCADシステムの品質です」と私が指摘した。
「現在のシステムは、提案資料の見栄えが悪いとのことでしたね」
営業統括部長が頷いた。「ええ。3Dパースの品質が低く、顧客に『安っぽい』という印象を与えてしまうことがあります」
「提案段階で顧客を失うケースは、どれくらいありますか」と私は尋ねた。
「正確には分かりませんが」と営業統括部長が答えた。「競合他社の提案と比較されて、見劣りすることはあるでしょう」
「仮に」とClaudeが試算した。「提案資料の品質向上により、成約率が5%上がったとします。年間6,000件の提案のうち、300件が追加で成約する。一件あたりの粗利50万円とすると、年間1.5億円の利益増加です」
[隠れたコスト3:加盟店の不満]
「三つ目のコストは、最も見えにくいものです」と私が強調した。「加盟店の不満と、それによる離脱リスクです」
営業統括部長の表情が曇った。「確かに、CADシステムへの不満は、加盟店との関係に影を落としています」
「加盟店が離脱した場合のコストは」とGeminiが尋ねた。
「加盟金や研修費など、一店舗を育成するのに約500万円かかります。そして、離脱した加盟店の年間ロイヤリティ収入が失われます」
「年間ロイヤリティを一店舗あたり300万円とすると」とClaudeが計算した。「仮に、CADシステムへの不満が原因で、年間5店舗が離脱を検討しているとすれば、潜在的な損失は年間1,500万円です」
[投資額の算定]
「では、新しいCADシステムの導入コストはどれくらいですか」と私は尋ねた。
営業統括部長が資料を確認した。「複数社から見積もりを取っていますが、初期導入費用が約8,000万円。年間保守費用が約1,000万円です」
「つまり」とGeminiが整理した。「初年度の総投資額は9,000万円」
「一方、現状を維持することで失われているものは」とClaudeが計算した。「書き直しコスト1,800万円、機会損失3億円、提案品質による損失1.5億円、加盟店離脱リスク1,500万円——合計で約4.8億円です」
営業統括部長が息を呑んだ。「現状維持のコストが、投資額の5倍以上ですか」
第三章:小さな証明
「しかし」と私が慎重に付け加えた。「この試算は、あくまで仮説です。本当にこれだけの効果が得られるかは、実際に試してみないと分かりません」
営業統括部長が不安そうな表情を見せた。「では、どうすれば」
「ROIモデルの本質は」とClaudeが答えた。「投資前に効果を予測し、投資後に実際の効果を測定し、予測と実績を比較することです」
「具体的には」とGeminiが提案した。「まず、10店舗の加盟店でパイロット導入を行います。期間は三ヶ月。この期間中に、以下のデータを収集してください」
私はホワイトボードに項目を書き出した。
「一つ目、図面作成時間。新システムでは、提案図面の作成時間がどれだけ短縮されるか」
「二つ目、書き直し時間。本部での図面書き直し時間が、本当にゼロになるか」
「三つ目、提案成約率。新システムの提案資料を使った場合と、従来のシステムを使った場合で、成約率に差があるか」
「四つ目、加盟店の満足度。新システムへの満足度を、5段階評価で測定する」
「そして」と私が強調した。「このデータを基に、ROIを再計算するのです。予測が正しければ、残り290店舗への展開を自信を持って進められる。予測が外れていれば、何が想定と違ったのかを分析し、計画を修正します」
営業統括部長が尋ねた。「パイロット導入のコストはどれくらいですか」
「10店舗分の初期費用で、約1,000万円でしょう」とGeminiが答えた。「全体の投資額の約1割です」
「この1,000万円の投資で」とClaudeが続けた。「残り8,000万円の投資判断の確実性が大幅に高まります。これこそが、リスクを最小化しながら前進する方法です」
第四章:数字という証拠
営業統括部長は、ホワイトボードに書かれた試算を見つめていた。
「これまで、CADシステムの導入は『8,000万円の投資』としか見ていませんでした。しかし、現状維持にも、実は4.8億円のコストがかかっていたのですね」
「ROIモデルが教えてくれるのは」と私は答えた。「投資判断は、『やるか、やらないか』ではなく、『やった場合のコスト』と『やらなかった場合のコスト』の比較だということです」
Claudeが静かに言葉を添えた。「そして、どちらのコストも、推測ではなく測定可能な数字に落とし込むこと。それが、確実な意思決定の基礎になります」
営業統括部長が立ち上がり、深く頭を下げた。「ありがとうございます。来月、パイロット導入の稟議を上げます」
彼が去った後、Geminiが感心したように言った。「ROIモデルは、シンプルですが強力ですね」
「ああ」と私は答えた。「しかし、ROI計算で最も難しいのは、『見えないコスト』を可視化することだ。それができて初めて、真のROIが見えてくる」
窓の外では、冬の陽光が事務所を照らしていた。
三ヶ月後、TechVision社から報告が届いた。
パイロット導入した10店舗のデータ分析の結果、予測を上回る効果が確認されたという。
図面作成時間は平均40%短縮。本部での書き直し時間はゼロに。提案成約率は、従来の52%から61%へと9ポイント上昇。加盟店の満足度は、5段階評価で平均4.3。
最も重要な発見は、加盟店の営業担当者が「顧客との対話時間が増えた」と報告したことだった。図面作成に費やす時間が減った分、顧客のニーズをより深く聞き、より良い提案ができるようになったという。
数字は、仮説を証明していた。
「投資の価値は、投入する金額だけでは測れない。現状を維持することで失われているもの——時間、機会、信頼——これらを正確に数値化して初めて、真のROIが見えてくる。そして、大きな投資の前に小さく試すことで、仮説は確実性へと変わる」