ROI事件ファイル No.488『顧客が、うちの顧客ではなかった日』
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顧客が、うちの顧客ではなかった日
第一章:自社の顧客データに、アクセスできない
「ファンの個人情報が、うちにはないんです」
Globex社のDX推進担当、橋本拓也氏は、そう言いながらファンクラブ一覧を広げた。三百近い数の枠があり、それぞれにアーティスト名、運営会社、契約開始年が並んでいた。
「アーティスト別に約三百のファンクラブが存在します」と橋本氏が続けた。「半分以上が外部の運営会社に委託しています。ファンが会費を払い、会員情報を登録し、活動するのは外部のプラットフォーム上。その個人情報は運営会社が保有しています」
「運営会社から会員データを取得できますか」とClaudeが確認した。
「できません」と橋本氏が答えた。「個人情報保護法があり、目的外利用にあたる情報提供は困難です。また、契約上も運営会社側がデータ管理者として位置づけられている。委託先にお願いして、集計値は出してもらえますが、個別の会員情報にはアクセスできない」
「Globex社の戦略方針は」と私が尋ねた。
「BtoBからDtoCへの転換です」と橋本氏が答えた。「アーティスト一人一人のファンと直接繋がる基盤を作る。そのためには、顧客の一次情報を自社で持つことが絶対条件になります。今のままでは、DtoC戦略の土台がない」
「自社運営のファンクラブもありますか」とGeminiが尋ねた。
「約百二十です」と橋本氏が答えた。「ただ、使っているシステムが異なります。複数のパッケージ、独自開発のもの、社内で管理しているExcelベースのものまで混在している。運営会社委託分と合わせると、統一されたプラットフォームが存在しない状態です」
「検討は具体的に進んでいますか」とClaudeが確認した。
「システム会社からいくつか提案を受けました」と橋本氏が答えた。「ただ、どれもパッケージ導入型で、カスタマイズが限定的です。三百のファンクラブにはそれぞれ異なる運営スタイルがあり、画一的なパッケージでは対応できない。自社主導で作り込めるパートナーを探しています」
「議論が進まない理由が、まだ言語化されていませんね」と私が静かに言った。
第二章:SBIが問う状況と行動と影響
「この案件には、SBIが必要です」
Claudeがホワイトボードに三つの文字を書いた。S・B・I。
「SBIとは、Situation(状況)、Behavior(行動)、Impact(影響)の三要素で現状を分析するフレームワークです」と私が説明した。「元はフィードバック技法として使われますが、複雑な事業課題の整理にも有効です。状況を記述し、その中で起きている行動を特定し、それがもたらす影響を可視化する。三要素を同時に見ると、課題の全体像と優先順位が浮かび上がります」
「まず現状のコストを測りましょう」とGeminiがROI Polygraphを開いた。橋本氏から提供されていたファンクラブ運営データを入力する。
「年間の分散コストが出ました」とGeminiが読み上げた。「ファンクラブ運営会社への委託費用が年間約八千四百万円——運営手数料・システム利用料・サポート費用の合計。自社運営分の複数システム維持費用が年間約三千六百万円。三百のファンクラブ間でのデータ連携が不可能なことによる、横断的なマーケティング機会損失——同じファンが複数ファンクラブに所属していても把握できないことによる重複訴求・離脱誘発——の試算が年間約六千万円。合計で年間約一億八千万円が、現状の分散構造から発生しています」
橋本氏が数字を見つめた。「機会損失の規模が、想定より大きい」
「では、SBIで設計します」と私が続けた。
[S——Situation:状況を正確に記述する]
「現状を三層で記述します」とClaudeが言った。「第一層——保有データの所在。自社運営分のデータは、複数システムに分散。委託分のデータは、自社から一切アクセスできない。第二層——ファンクラブ間の関係性。三百のファンクラブは独立運営で、同一ファンを横串で把握できない。第三層——戦略との距離。DtoCを目指すなら、顧客の一次情報が自社にあることが前提条件。現状はその前提を満たしていない」
「第三層で、戦略と現状の距離が一番遠い」と橋本氏が気づいた。
「距離が遠いほど、整理する意味があります」と私が応じた。
[B——Behavior:起きている行動を特定する]
「今、どんな行動が起きているかを整理します」とGeminiが続けた。「第一に、各運営会社がそれぞれのシステムでファンを管理——Globex社には何も入らない。第二に、自社運営分でも、ファンクラブごとに独立したシステム運用——横串の分析ができない。第三に、新規施策の企画のたびに、個別ファンクラブごとにデータを依頼——依頼のたびに時間と調整コストが発生。第四に、個人情報保護法対応——委託先との契約見直しが個別に発生」
「第三の行動が、日々の負担としては最大です」と橋本氏が言った。「新しいキャンペーンを打つたびに、各ファンクラブの担当者に打診して、集計データをもらう。一つの施策に二週間かかることもあります」
「迅速な意思決定ができない構造です」とClaudeが応じた。
[I——Impact:影響を可視化する]
「現在の行動がもたらす影響を、三つに分けます」とClaudeが続けた。「第一に、ビジネス影響——DtoC戦略が前に進まない、機会損失が蓄積する。第二に、顧客体験影響——同じファンが複数ファンクラブで重複案内を受ける、統一された体験が提供できない。第三に、組織影響——データ依頼のたびに発生する調整コストが、新規企画のスピードを下げる」
「三つの影響を同時に改善する必要があるんですね」と橋本氏が確認した。
「同時にです」と私が答えた。「一つだけ改善しても、他が残れば戦略は進みません」
[解決の方向性——一次情報の統合プラットフォーム]
「SBIで整理した結果、解決策は一つに集約されます」とGeminiが続けた。「Globex社主導の統合プラットフォームを構築し、新規ファンクラブはそこから運用開始、既存ファンクラブは段階的に移行。委託先との契約見直しは、新プラットフォームを前提に再交渉します」
「既存のパッケージを採用する選択肢は」と橋本氏が確認した。
「限定的です」とClaudeが答えた。「三百のファンクラブの多様性を単一パッケージで吸収するのは現実的でない。ただし、全部をフルスクラッチで作る必要もありません。コア部分——会員管理、決済、認証——はSaaSを組み合わせ、ファンクラブごとの個別要件はその上のレイヤーでカスタマイズする構成が、自由度とコストのバランスが取れます」
「ROI Proposal Generatorで試算しましょう」とGeminiが提案した。
- 初期費用:統合プラットフォーム設計・開発・既存データ統合基盤・セキュリティ対応費用合計一億二千万円。パートナー企業への委託費を含む
- 月次費用:プラットフォーム保守・クラウド費用月百八十万円
- 月次削減効果(三年目から本格的に効果が出る想定):委託運営費の自社運営化による削減=月二百十万円、複数システム統廃合による削減=月百五十万円、横断マーケティングによる機会損失回復=月三百万円、合計月六百六十万円
- 月次純削減:六百六十万円-百八十万円=月四百八十万円
- 投資回収期間:一億二千万円÷四百八十万円=約二十五ヶ月(段階移行を考慮すると三年で回収)
「三年で回収、それ以降は年間約五千七百万円の純削減が続きます」とGeminiが整理した。「加えて、一次情報の保有がDtoC戦略の土台となります。データが自社にあることで、新規事業の立ち上げスピードが変わる。数字に直接表れない戦略的価値が大きい」
橋本氏が数字を確認しながら言った。「三年で回収は、事業投資としては標準的な期間です。戦略的価値を加味すれば、十分に判断できる数字です」
第三章:段階移行の設計
「進め方を整理します」と私がホワイトボードの前に立った。
「第一期——六ヶ月間。統合プラットフォームの要件定義、パートナー選定、コア設計。同時に、個人情報保護法対応の契約書雛形を作成。第二期——十二ヶ月間。プラットフォーム構築と、新規ファンクラブからの本番稼働。自社運営分の一部を先行移行。第三期——二十四ヶ月間。既存自社運営分の全移行と、委託運営分の契約見直し交渉。第四期——三十六ヶ月以降。全ファンクラブが統合プラットフォームに乗った状態で、横断マーケティングを本格稼働」
「委託先との交渉が、最も難航しそうです」と橋本氏が言った。
「難航します」とClaudeが答えた。「ただし、交渉の材料は揃います。新プラットフォームが動いていれば、委託先に対して『同じサービスを自社で提供できる』立ち位置が作れる。交渉力が変わります」
橋本氏がノートを閉じながら言った。「三年という時間軸で考える案件だと、今日理解しました。短期で結果を出そうとすると、かえって止まる」
第四章:顧客が、うちの顧客になった日
二十八ヶ月後、橋本氏から報告が届いた。
統合プラットフォームは第十八ヶ月に本番稼働。新規ファンクラブ二十件がプラットフォーム上で立ち上がり、稼働六ヶ月で会員数が合計約四万八千人に達した。「Globex社が、初めて自社で保有する会員台帳ができた」と橋本氏は記していた。
自社運営分の既存ファンクラブは二十八ヶ月時点で約半数が移行完了。残り半数は契約更新タイミングでの切り替えを予定。委託運営分については、大手運営会社二社との交渉が進行中で、一社は段階的移行に合意した。
最大の変化は、横断マーケティングの実現だった。新プラットフォーム上では、同一ファンが複数アーティストのファンクラブに所属しているケースが可視化され、クロス施策が打てるようになった。稼働後六ヶ月のクロス施策で、該当ファン一人あたりの年間単価が約十七パーセント上昇。「ファン一人を、全社で見られるようになった」と橋本氏は書いていた。
新規事業として、アーティスト別ライブ配信プラットフォームが立ち上がった。既存会員データとの連携により、稼働初月から約一万二千人の視聴者を獲得。「一次情報があるから、新規事業の立ち上げが早くなった」と報告書にあった。
個人情報保護法対応については、自社保有データが中心となったことで、同意取得・開示請求・削除対応の全プロセスが自社内で完結。「対応スピードが以前とは別物になった」と記されていた。
橋本氏の報告書の最後にはこう書かれていた。「二十八ヶ月前、自社のファンの情報にアクセスできないことが、普通のことだった。今、それは普通でなくなった。普通の基準が変わった」
顧客が、うちの顧客になった日だった。
「自社の顧客なのに、自社にデータがない。この状況は珍しくない。委託の積み重ねで、いつの間にかできあがる。SBIが問うのは、状況・行動・影響の三層だ。状況だけを見ると諦めが先に立つ。行動を特定すると改善点が見える。影響を可視化すると、投資の根拠が整う。三層を同時に見ることで、複雑な事業課題が分解可能になる。顧客が、うちの顧客になった日——それは、統合プラットフォームが完成した日ではなく、自社が顧客と直接繋がる判断をした日だった」
関連ファイル
使用ツール
- ROI Polygraph — 委託費・システム分散・機会損失コストの可視化
- ROI Proposal Generator — 統合プラットフォーム構築の投資回収シミュレーション